沖縄国際映画祭 10カウントは聞かない~カンムリワシを育てた男 2018

 沖縄ボクシング界の名伯楽故・金城眞吉監督のドキュメンタリー映画
『10カウントは聞かない~カンムリワシを育てた男』

金城眞吉


の上映会に参加させていただき、そのあとレッドカーペットを歩かせていただくという、とても貴重な体験をさせていただきました。

 

この作品の主人公である故・金城眞吉監督は、興南高校・沖縄尚学高校ボクシング部の監督として40年、そして40人あまりの全国チャンピオンを育てあげ、教え子の中には日本ボクシング界のレジェンド具志堅用高さんがいる事はあまりにも有名です。

↓は『島ぜんぶでおーきな祭 第10回沖縄国際映画祭』からの作品紹介を引用

 

故郷・沖縄で二度目の防衛戦を初回KOで飾った比嘉大吾。試合後彼が手に持ったのは昨年死去した沖縄アマチュアボクシング界の名指導者、金城真吉の遺影だった。

彼の本職は消防士だが、40人余りの高校王者を育てた。その指導は厳しいの一言。そんな指導を受け、初のインターハイ王者になったのが具志堅用高。心技体そろった真吉が理想とする選手だった。

真吉は彼に五輪選手を期待し大学進学のお膳立てをするが、具志堅はプロに「攫われ」てしまう。監督に詫び、“世界を盗る”と約束した具志堅は、2年後、本当に世界のベルトを手にする。

凡そ10年後、1987年の海邦国体は真吉にとって勝たなければならない重要な大会だった。その数年前、真吉は地方から出てきた子供たち満足に食事をしていないことを知る。

真吉は新たに建てた自宅を改造してリングと寮を作る。寮生の食事の面倒や怖い真吉に言えないことを聞くのは妻の清子。寮生の中には「やんちゃ」な子供も多かった。しかし真吉は「チャンピオンになれなくても、社会に出て恥ずかしくない大人にする」と進んで受け入れた。

そんな真吉の指導も時代の流れの中、王者を作れなくなった。追い打ちをかけたのが妻・清子の急死だった。そして2014年。真吉はジムを閉めた。

その後、病を得た真吉。しかし最後の最後まで彼のボクシングへの情熱が消えることはなかった。

 

とあります。この文章では本当に短い文でざっとまとめただけですが、実際の映画を拝見した感想は金城眞吉という男がどれだけの事をしてきた人なのか垣間見えるドキュメンタリー映画に仕上がっていました。

金城眞吉

金城監督が練習中によく具志堅用高さんの話をされていたのを今でも覚えています。

具志堅さんはきつい練習から逃げずに自分に勝てる選手だった事。

金城監督のアドバイスを素直に受け入れ、毎日の練習で体に染みこませていた事。

それを試合で出せるように常に考えながら練習していた事。

具志堅用高さんの事をあげればキリがないですが、実はこのドキュメンタリー映画にはもう一つの伝えたい想いが込められています。

それは、高校生チャンピオンを40人も育てた事ではなく、ボクシングというスポーツを通して

『人間形成』を心情に無償で何十年も指導にあたっていた事です。

 

家族との時間を犠牲にしてまで他人の子供を育て上げる。

奥さんと出かけるのはもっぱら選手たちのご飯の買い出し。

しかも無償どころか私財をなげうって自宅の2階部分に建てた『ウィンナーボクシングジム』、その横に選手が寝泊りをするように建てたボクシング部寮。

 

親から預かった子供たちを3年間かけて社会に出ても恥ずかしくない男に指導してくれて、その過程でチャンピオンになれればもうけもんだと、卒業してから初めて聞かされました。

ただそれを現役の選手に言ってしまうと、チャンピオンを目指す気持ちが薄れてしまうかもしれないという想いが金城監督なりにあったそうで、現役の選手達にはチャンピオンになれ!

リングで相手にぶっ倒される前に練習で自分を追いこめ!

この熱い想いが、金城監督の格言になっていきました。

代表的な言葉が

『人に勝つ前に自分に勝て』

でした。

自分に甘い奴が人に勝てるわけがない。人より努力して人よりいっぱい考え抜いて、人より苦しい練習に耐えて初めてチャンピオンになる資格があるんだ!

とよく言われていました。

当時の僕は正直そこまで考えていませんでした。

だから僕は全国チャンピオンになれなかったんだと最近よく思います。

 

金城監督が事あるごとに一人の選手の名前を口にしていました。

それが渡久地隆人先輩、ことピューマ渡久地先輩でした。

ピューマ渡久地

 

今回のドキュメンタリー映画で一番よく出てくるのが渡久地さんです。

まさに金城監督のモットーである『人間形成』が描かれているし、渡久地さんの実際の声もたくさん入っているのでとても興味深いです。

渡久地さんは中学生の頃毎日のように喧嘩をしていたそうです。学校の先生には見放されていたそうで、親は色んなスポーツをさせて更生を試みたが、どれも失敗に終わったそうです。

そんな時に興南高校ボクシング部監督である故・金城眞吉監督の噂を耳にして、すがる思いで金城監督に会いに行ったそうです。

金城監督に初めて会って話をした時に渡久地さんのお母さんは

『この人なら息子を変えてくれる』

と確信したそうです。

金城監督と会った事のある人なら分かると思いますが、金城監督は外見がとても怖いんです。

話すともっと怖いんです。オーラというか、金城監督の雰囲気が只者ではないんです。(いい意味で)

 

 

その後渡久地さんは興南高校に入学し、予定通り金城監督率いるボクシング部に入部し、海邦国体で団体優勝に貢献したのちプロボクサーになっていきました。

ドキュメンタリーの詳しい内容は6月3日日曜日15:30~16:54琉球放送さんで放送されるテレビ番組版を是非ご覧下さい。

出演者の顔ぶれも豪華ですし、一瞬ですが僕も映っています。


出演者の中には元ジュニアフライ級チャンピオンだった具志堅用高さん、WBC世界フライ級前チャンピオンの比嘉大吾選手、そしてWBC世界スーパーライト級元チャンピオンの浜田剛史さん、先ほど紹介したピューマ渡久地さん、先日日本スーパーフライ級王座決定戦を久高選手と争い、惜しくも判定負けで王座奪取とはならなかった翁長吾央さん、その他にも渡久地さんの2期後輩の日本ストロー級元チャンピオンの玉城信一さん、渡久地さんと共に海邦国体で優勝した時のメンバーだった石黒さん、今年の1月に東洋太平洋スーパーフェザー級に挑むも、惜しくもTKO負けとなった小谷将寿など、出演者の話だけでも飽きないほどの顔ぶれとなっています。

僕の一期上の先輩の

嘉陽宗嗣先輩

嘉陽宗嗣 川ちゃん

も参加していました。

ドキュメンタリー映画には紹介されていませんが、沖縄尚学卒の選手として一番活躍して結果を出したのは嘉陽宗嗣先輩でしょう。

活動拠点が東京だったので沖縄では知名度は少し低めですが、パンチ力、パンチのスピード、ディフェンス、スタミナ、根性。

どれを見てもとてもバランスのとれた選手でした。

第31代日本ライトフライ級チャンピオン・第28代OPBF東洋太平洋チャンピオン。

サウスポーのボクサーファイターで、自分から仕掛けていき、相手が反撃してきたところにカウンターを合わせるなど、正に金城監督の教えを、プロのリングでも実践してきたボクサーでした。

世界タイトルマッチも行いましたが、当時の世界チャンピオン、ワンディー・シンワンチャー選手の体重超過の影響で相手のパワーに終始押された末に判定負けを喫し、世界タイトル奪取はなりませんでした。

そんな嘉陽宗嗣選手の話はまた後日詳しくさせて下さい。

金城眞吉

話を戻します。

映画が進むにつれて、金城監督の奥さんである故・金城清子さんが映像に映ると感情が一気にこみ上げてきましたね。

会場にいた先輩方の方からもすすり声が聞こえてきましたので、皆思いは同じだったんでしょう。

奥さんは僕らと金城監督の緩衝材として抜群のポジションに常にいてくれて、選手の悩みなど聞いてくれましたし、金城監督が消防隊の勤務で練習に来れない日には奥さんが技術的なアドバイスをしてくれる事もありました。

奥さんのバックアップ無しには金城監督のここまでの功績もなかったといっても過言ではないでしょう。

金城監督の生い立ちから功績はもちろん、奥さんのエピソードや卒業生のエピソード、息子さんや娘さんの話もたくさん入っていますので金城監督を知らない方も見やすいと思います。

僕らが今こうやって人前に出れるように挨拶や礼儀作法、そして先輩方が残してくれた伝統を僕らがまた後輩に引き継いで行く事を金城監督が教えてくれた賜物でしょう。

そして今でもこうやって、世代は違っても兄弟として付き合える先輩、後輩は今後の人生の宝である事に疑いはありません。

金城監督、今回の沖縄国際映画祭もレッドカーペットを歩くのもとても貴重な経験をさせてくれてありがとうございます。

天国でも奥さんと仲良くゆっくりと過ごされてくださいね。

そして、この映画製作に尽力された日高憲一先輩、琉球放送株式会社の土方淨さん、ありがとうございました。

 


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